社会で活躍するOBの紹介

社会で活躍している、あるいは活躍された卒業生(同窓会会員)を紹介したいと思います。
不定期に取材した方々を順不同でご紹介いたします。取材者の主観が入りますがご了承ください。
なお、文面に間違いや、掲載に差しさわりがあるものがあれば、問い合わせフォームより、ご連絡下さい。

外務省大臣官房在外公館課長 植野篤志(うえの あつし)氏

1983年3月 滝高等学校卒業
1986年10月 外務公務員採用I種試験合格
1987年3月 東京大学法学部卒業
1987年4月 外務省入省
1988年9月 北京大学法律系
1990年9月 コロンビア大学国際関係・公共政策大学院
1998年 2月 在アメリカ合衆国日本大使館 一等書記官
2000年12月 在中華人民共和国日本大使館 一等書記官・参事官
2003年4月 大臣官房人事課 首席事務官・企画官
2005年9月 国際法局 条約交渉官
2007年2月 国際情報統括官組織付国際情報官(第三国際情報官室担当)
2008年8月 国際協力局多国間協力課(現:地球規模課題総括課) 課長
2010年3月 国際協力局政策課 課長
2011年9月 大臣官房在外公館課 課長

“外務省に入ってから北京大学とコロンビア大学に?”

はい。外務省では入省後に自分の専門になる語学を一つ決めないといけないのですが、私の場合はそれが中国語で、中国語と中国事情の勉強のために北京大学に2年間留学しました。当時は、中国では留学生というのはどちらかというと「お客さん」扱いで、学校の授業で勉強するというよりは、自分で大学の先生を何人か見つけてきて、彼らに家庭教師をお願いし、家庭教師から中国語を学ぶことが生活の中心でしたね。その後、さらに1年間、アメリカのコロンビア大学の大学院に留学し、国際関係論の修士をとりました。

“修士を1年で?それはすごいですねぇ”

はい、もうメチャクチャ勉強しましたよ(笑)

“留学後のお仕事の概要は?”

日本の官庁ではどこも同じだと思いますが、だいたい2~3年で部署を異動しながら経験を積んでいきます。私の場合、中国語で研修をしたわけですから中国関係の部署にもいましたし、国際協力に関わる仕事や諸外国と交渉する際の法律顧問的な業務もやりました。また、役所では「官房」と呼びますが、人事とか総務とか、いわゆるマネジメント部門での経験もあります。

“これまでの仕事で印象的だったことは?”

外務省での仕事っていうのは世間一般から見れば印象的なことだらけですよ(笑)例えば、北京大学に2年間留学している間にはいわゆる天安門事件が発生し、そこに至る学生運動の盛り上がりとか、中国当局の対応を現地でじかに見ていましたし、東京に戻った後は、官房総務課にいた1996年12月にペルーの大使公邸占拠事件が発生し、オペレーションルーム(緊急対策室)を立ち上げたり、何ヶ月も交代で泊まり込んで現地との連絡に当たったりしました。

その後ワシントンDCの日本大使館に勤務していた1998年8月には、北朝鮮が日本の上空を超えてテポドン・ミサイルを発射したために大騒ぎになったことがありました。あのテポドン発射により、この北東アジア地域の安全保障環境が決して安定しているわけではないという危機感が急速に国内に広まったんじゃないかと思いますね。また、ワシントンでの勤務の終盤にはアメリカの大統領選挙があり、ブッシュ候補とゴア候補が最後まで接戦を繰り広げて、投票日が過ぎた後もずっと決着がつかないという不思議な状況を目の当たりにしました。

その後、日本に帰って来て最初に担当したのが人事の仕事なんですが、その時にはイラクで奥大使、井ノ上書記官という2名の同僚が銃撃され、殉職するという痛ましい事件がありました。我々の仕事は常に危険と隣り合わせで、そのことを頭では分かっているつもりでも、個人的にもよく知っていた同僚がテロで亡くなるというのは大きな衝撃でした。ただ、彼らのご遺体の日本への帰国や東京での葬儀を手伝った際に、多くの国民の方々が2人の死を悼み、ご遺族だけでなく同僚の我々をも励ましてくださったことには、すごく勇気づけられました。

最近では、今のポストのすぐ前に、政府開発援助(ODA)に関する政策・予算を総括し、ODAの実施機関であるJICA(国際協力機構)を監督する部署の課長をしていました。この時は民主党政権下で自分の担当している事業や組織が何度も「事業仕分け」の対象にされて、結局5回も事業仕分けに出ました。その都度、あの蓮舫・参議院議員と「対決」し、それがTVやインターネットで放映されたため、久し振りに会う滝の同級生にも「仕分けの時にテレビに映ってたね。」と言われるくらいでした。今では蓮舫先生にも仲良くしていただいてますけどね(笑)

“沢山ありますね。一般人としてはなんといっても事業仕分けの話をもう少し聞きたいですが”

立場上、あまり立ち入ったことは申し上げにくいのですが、テレビでセンセーショナルに取り上げられたのは、事業仕分けという一連のプロセスの中でごく一部の、最後の最後の部分だけであり、そこに到るまでに仕分け人の側も仕分けられる官庁の側も色々な準備ややりとりをしていたということは分かっていただきたいですね。また、事業仕分けについては様々な評価があり得ると思いますが、自分がやっている仕事を誰にでも分かるように説明しなくてはならないという経験は良い勉強にはなりました。

“ところで高校生時代はどうでしたか?”

一宮から自転車通学していました。中学校はバレー部でしたが、中3の時、卒業を目前に控えた時期に腎臓結石で入院してしまったこともあり、激しい運動は良くないのかと思って(実は全然そんなことなかったのですが)高校では美術部に所属しました。藤川先生がいらした良い時代だったと思います。絵は好きでしたが自分で描くのは実はそんなに得意じゃなくて、いちおう部長だったんですが、まじめな美術部員とは言い難く、むしろスケッチ旅行の幹事とかを一生懸命やってましたね(笑)

滝はうちの近所ですし、家族・親族にも卒業生がいるし、愛着はあることはあるのですが、しかし、全体的な印象としては、やたら勉強ばかりさせられたという思いが強いです。特に大学に入ってから周りを見てみると、東京や関西の有名進学校の出身者なんかで、勉強だけじゃない、もっと人間的に幅の広い生活を送ってきた人たちが沢山いて、自分はなんて勉強ばっかりしてたんだろう、って痛感しました。なにしろ高校2年の修学旅行の時、行きの新幹線の中で国語の追試をしていた程ですから。いったい全体、修学旅行の最中に試験をやる必要なんて本当にあったのかと。

高校時代はずっと勉強に追われていたから、自分で何も考えなくてもスケジュールが埋まっていきましたが、大学に入った後、どの授業に出るか自分で決めて良いよ、といきなり自由になってしまったため、燃え尽き症候群というか五月病になってしまいましたね。教養学部時代の2年間は、運動部に入っていたこともありますが、殆ど勉強しませんでした。3年になって本郷のキャンパスに通うようになってから、周りが急に勉強し始めるし、自分でもこれではダメだと思って奮起しましたけど。

中学・高校時代、もう少し自分で考え、自主的に勉強するようなやり方を指導していただいた方が良いんじゃないかと思います。今は指導方針が変わっているということであれば杞憂に過ぎないわけですが、そもそも志望する大学に合格するのはあくまでも将来に向けたスタートに過ぎないのであって、そこで燃え尽きてしまうのでは本末転倒ですから。

“今のお仕事は?”

海外にある国の出先機関には大使館、総領事館、政府代表部という3つの種類があるのですが、これらを総称して在外公館と呼んでいます。今の仕事はこの在外公館の運営を統括すると言いますか、例えば事務所を借りたり、現地で人を雇ったり、業務上必要な予算の執行を承認したり、といったことですね。あと、海外で勤務する職員の待遇とか生活環境の改善なども担当業務に含まれます。

“滝の後輩へのメッセージをお願いします”

私が知らないだけかも知れませんが、滝の卒業生は進学実績の割には官庁に入る人が少ないような気がします。このところ公務員に対する風当たりはずっと強いですけど、少しでもこの国や社会を良くしよう、少しでも多くの人の役に立つ仕事をしたい、と思う方には我々のようなパブリック・セクターでの仕事は非常に魅力的だと思うんですよね。なので、滝の後輩の皆さんにはもっともっと公務員を目指して欲しいです。

 お忙しい中、取材協力をありがとうございました。今後のご活躍を期待致します。
又、母校から植野様に続く人があらわれることを期待したいと思います。

2013年5月取材
(文責:S57卒 佐宗美智代)