1980年3月 滝高等学校卒業
1980年4月 東京大学理科1類 入学
1984年3月 東京大学理学部情報処理学科(6期生)卒
1989年3月 東京大学理学部情報科学科 博士課程卒
大学在学中の1984年(昭和59年)荒川氏と 有限会社アクセス設立
1996年11月 株式会社アクセスに改組 同社取締役副社長に就任
2000年4月 株式会社ACCESSに商号変更
2009年2月 代表取締役社長に就任
2011年10月 株式会社ACCESS退社
2012年4月 Mynd株式会社 代表取締役社長、TomyK Ltd. 代表
(*)NetFront(ネットフロント)ブラウザーは、携帯各社(いわゆるガラ系)、各社デジタルテレビ、各社カーナビ、SONYプレイステーション、任天堂3DS、その他情報家電に使われている。
“大学在学中に起業したのですか?”
はい、大学4年生の時に大学院の試験に受かったので、入学金と授業料を稼ごうと思って始めました。当時は、8ビットマイコンの時代で、ソフト開発のアルバイトは率が良かったのです。100万円ぐらい稼ごうと思って。
このころ、荒川さん(ACCESS創業者)と出会いましたが、結構周辺でアルバイトで儲けていたので、これはいけるかなと思って、一緒に始めました。
その後、大学院に行きながら、メーカに行ってもやりたいことができるかな?と考えた時に、自分達でやった方がやりたいことができる、と思い、就職せずにそのまま会社を続けたわけです。
なにしろ、ソフト開発は元手が不要で、アイデアだけでできますから。
”会社はトントン拍子に?”
いえいえ、当時はベンチャーなんてやる人がいなかったので、参考になるような手本もなく、ちょっと軌道に乗ってくると大変なことが増えてきました。まず間接業務がよくわからない。人を雇うと、とたんに問題山積ですよ。本当に大変だったのは、50人ぐらいになった時ですかね。
20年間、売上が伸び続け、300億円ぐらいまで右肩上がりでした。しかし、ソフトウェア事業は受注しても仕事が終わってからしかお金が入らない。大きな仕事になればなるほどキャッシュフローが苦しくなってきます。当時は、資金もベンチャーキャピタルもない。銀行も不動産がないとお金を貸してくれない。84年に始めて、10年以上そんな感じでした。
大きく成長できるきっかけとなったのは携帯電話のドコモのiモードで使ってもらえたこと。これは売り込みに行って始まりました。それまで山のように失敗していました。ゲームとかTVなど様々な家電機器をインターネットにつなげてみたけど、ほとんどのものはあまり売れない。少し時代が早すぎたようです。当時はまだモデムの時代だったので。
”モデムって、ピーヒョロヒョロとアナログ電話線につなぐものですね。随分古いですね。”
携帯電話とPHSはすでにその頃市場に出ていました。しかし、携帯の画面がとても小さいので、ブラウザやメールの画面をどう見せるかで苦労しました。
1997年に試作が始まって、当時社員は50人程度でしたが、これを2年後の1999年にサービスを始めるためには、人が圧倒的に少なかった。何しろ、ドコモの携帯電話を提供しているメーカは4社ありました。三菱、NEC、富士通、パナソニック。それらに対応するには、人もお金も足りない。
そこで、1998年に第三者割当増資をして、思い切ってどっと人を増やしました。
その後、2001年に東証マザーズに上場して。おかげで借金も返せましたよ(笑)。
“ドコモのiモードへの採用というのは簡単に決まったのですか?”
よく採用してくれたと後から思います。もちろん自信はありましたけど、技術的に。
当時、携帯電話でホームページを見せるのは難しいと考えられていました。ブラウザ(ホームページを見るためのソフトウェア)を搭載するには、携帯電話はCPUのパワーがなく、メモリ容量も少なすぎたからです。それで、米国の会社が、HDMLという携帯サイト向けの専用規格と専用ブラウザを提案していて、ドコモでもほぼこれに決まりかけていたと思います。実際、AUではこのHDMLを採用しました。
これに対して、我々の自社開発ブラウザ「NetFront(ネットフロント)」と、「Compact HTML(コンパクトHTML)」というインターネットの標準規格ベースの提案をドコモに持ち込んだところ、採用されたというわけです。 既に、NetFrontが家電で使われていたという実績も評価されたと思いますが、実際に携帯電話を想定したデモを見せて、動かしてみせたというのが、インパクトが大きかったかもしれません。
“HDMLは結局使われなくなり、HTMLが標準になりましたね”
Compact HTMLの規格については、既にPC用にHTML規格で作られていた多くのホームページの資産が活用できることが重要と考えました。そして、この規格は、W3C(インターネットの国際標準化団体)に提案し、標準化しました。
“W3Cに提出されたのですか?それはすごいですねー。”
日本からW3Cへの提案はこれが始めてだったようです。又、W3Cへの提案は、通常新しい機能の追加であるのに対して、既存のものから機能を減らす仕様であったことも珍しかったようです。この提案を通して、世界的な仲間作りができたことは大きいです。(後に、サムソン、LG、モトローラなどの海外メーカも使ってくれることになりました。)
“そもそも、NetFrontを開発したきっかけは?”
受託システム開発案件は多々ありましたけど、基本的にパソコンソフトは大人数で力づくでやれば何とかできます。しかし、これに対して、組み込みソフトは面白かったのです。興味をそそりました。
メモリが少ない、CPUは遅いなど、制約が多いから工夫が必要です。大人数が勝負の開発と違って、ベンチャーでも技術があれば戦える、優位性があると思いました。
そこで、情報科学科の後輩や仲間に声を掛けて、ブラウザを開発し、TVにのせたり、OASYS(富士通)や書院(シャープ)などのワープロにもメール機能をのせたりなど、ほぼ日本のメーカ全てにライセンスしています。というようなことをいろいろとやって、1997年、携帯電話にインターネット機能をのせる話へとつながったわけです。
“競合する会社はなかったのですか?”
同じようなことをやっている会社は、当時アメリカにはありましたが、日本では、メーカが自分で内製でやっているか、我々だけでしたね。他には、Microsoftが組み込み用のOSとして、WindowsCEを出していましたが。
携帯電話は、その当時出ていたPDA(シャープのザウルスのような携帯情報端末)より、もう一段メモリが少なかったし、CPUも遅かったのです。だからやりがいがありました(笑)。
ドコモさんは、試作をやろうと言ってくれて、しかし試作をやっても商用の保証はないと言われましたが、運よく商用になりました。最初のiモード機にはメールとブラウザが搭載されました。
ドコモとやりながら、AUにも売りこみました。当時、AUは、アメリカのWAP方式を採用していて、先ほどお話した通り、HDMLを採用していました。なかなかAUで採用してもらえませんでしたが、ようやく2000年ぐらいからAUのメール(EZメール)もACCESSが開発したものになりました。
その後、ソフトバンク、WILLCOMと全キャリヤを制覇しました。
“その後はいけいけですか?”
1999年にドコモと開発したiモードが始まって、その後10年間は携帯インターネットが伸びた時代でした。ACCESSも、そのおかげで随分と成長できました。内容も面白かったですね。
当時は、1モデルで100万台出る時代でしたから。メーカさんも利益が出るからどんどん新しい技術を開発したがる。着メロとか、画面も大きくなるし。ハードの機能が良くなると、さらにやれることが増えます。結果サービスも充実していき、ユーザは1年ぐらいでどんどん買い換えた。だからキャリアも儲かったわけです。
好サイクルができていた良き時代です。年間5000万台も携帯電話が売れましたから。加入者も右肩上がりで。
今は、1モデルで10万台をベースに、20万台でたら大ヒットですよ。
“厳しくなりましたね。ところで、海外には?”
ACCESSが上場してから、海外展開も頑張りましたよ。多い時には年間で30回ぐらい海外出張に行っていましたから。
海外展開をしてわかったのは、通信ソフト、ブラウザソフト、メールソフトなどの家電機器(TVや携帯電話など)の中に組み込むソフトは、ローカル(その地域)にあわせないといけないこと。優秀なエンジニアをローカルで雇う必要が出てきます。アメリカ(シリコンバレー)や、ヨーロッパ(ドイツ、フランス、イギリス)で人を集めてやり始めました。中国は北京と南京でやりましたが、中国という国は日本人がマネージメントするのが難しいので、中国人に任せました。 韓国はやりやすく、100人ぐらい雇いました。インドはアメリカからコントロールできました。
いったん広げて、一時は国内500人、海外1000人で、1500人の社員がいましたが、その後、縮小しました。
海外にもiモードを広げようと頑張ったのですが、本格的に広まらなかったのは残念です。
“退職されて今は?”
会社が上場すると、当たり前ですが、継続的な成長を求められます。時には利益を追求して、やりたいこともできなくなります。学生時代から走り続けてきたので、50歳を契機に昨年ACCESS社を退職しました。ここで、自分のやりたいことを見つめ直して、最も自分が得意で社会に貢献できることにフォーカスして行こうと思っています。 そして、2012年4月に2つの会社を立ち上げました。 一つは、学生ベンチャーを支援する会社で、TomyKといいます。 そして、もう一つは、新しい技術を開発する会社、Myndです。
TomyKでは、ゼロから始める人達を支援しています。少額出資したり、経営や製品開発のアドバイスをしたりして、現在、東京大学の学生や若手と3、4社一緒にやっています。私自身、たくさん失敗しましたから、ほぼ彼らが失敗しそうなことは想像がつきます(笑)。 東大の濱田総長もベンチャー支援を後押ししていて、産学連携の組織もできて、いろいろ協力しています。東大のベンチャーキャピタルもあり、ネットワークを作ろうとしています。随分変わってきました。
Myndは、社員7人+私で、新しい技術を開発しています。 インターネットの今後の最大の課題の1つは、「情報が増えすぎてほしいものが探せない」という情報過多(情報爆発)の問題です。自分にとって必要なものだけをとってくる、というような情報整理の革新技術の開発です。人間の脳の情報処理とインターネットの情報を近づけるようなことが必要に感じています。とにかく、スマホもタブレットもクラウドもSNSも、アメリカにやられているので日本発で何か新しい技術を確立したいですね。
長い時間、ありがとうございました。
これだけの偉業を成し遂げた大先輩を誇りに思うと同時に、今後の活躍を大いに期待致します。
2012年7月、及び9月取材
(文責:S57卒 佐宗美智代)