社会で活躍するOBの紹介

社会で活躍している、あるいは活躍された卒業生(同窓会会員)を紹介したいと思います。
不定期に取材した方々を順不同でご紹介いたします。取材者の主観が入りますがご了承ください。
なお、文面に間違いや、掲載に差しさわりがあるものがあれば、問い合わせフォームより、ご連絡下さい。

元商社マン、退職後の人生は通訳ガイドで大忙し  長谷川郁雄氏

英語通訳ガイド、JFG会員及びWFTGA会員 長谷川郁雄
(平成22年4月25日 取材)67歳

1961年(S36年) 滝高等学校 普通科卒
1965年(S40年) 南山大学外国語学部英米科卒
1965年(S40年) 住友商事入社
1971年~1977年 ニューヨーク駐在
1986年~1991年 南アフリカ駐在
1994年~1997年 モスクワ駐在
1998年(平成10年)54歳の時、日本ニュークリアサービスに出向
1999年(平成11年)同社 代表取締役
2003年(平成15年)60歳で定年退職後~ 通訳ガイド

 

”当時の滝高校”

1961年(昭和36年)に滝の普通科を卒業しましたが、当時は普通科は1クラスで、1年から3年まで3年間、桜井先生が担任でした。若い先生が多く、夜も先生方が交代で家庭的学習を指導して頂き、家庭的な雰囲気の学校でしたね。クラスは50人ぐらいで、女性は、7,8人でした。

大学は、名古屋大学の入試に失敗しましてね、南山大学の文学部英文科に入りました。大学3年の時、外国語学部ができたので、英米科に編入しました。

”商社マン時代”

住友商事に入社して、ずっと原子力関係の仕事一筋です。入社した当時は、原子力発電所ができ始めた頃で、ウランを輸入して電力会社に売る仕事、それから、使用済み核燃料を、当時国内には再処理施設がなかったため、イギリスとフランスに輸出し、現地で再処理したものを、再利用可能なウランや、プルトニウムはそのまま日本に持ち帰り、使えないものは、貯蔵できる形に加工して、つまり、ガラス固化(長期間保管しても変化しない形)に閉じ込めたものを持ち帰り、下北半島の㈱日本原燃に貯蔵する。お客様は日本の電力会社、北は北海道電力から、南の九州電力まで数え切れないほど回りました。

イギリスやフランスに、電力会社の人と一緒に行って、現地で通訳も兼ねて交渉を行いました。住友商事がエージェントをしていたわけです。

又、南アフリカからウランを持ってくるということにも携わっていました。だいたい5年~10年ぐらいの期間の大規模契約で、年間使用量も1000トンとか、非常に大きいものでした。5年ぐらい前から交渉し始めて、2年3年かけてようやく契約にこぎ付けるというような仕事でした。

海外にも滞在しました。最初はニューヨークに1971年から6年間。次は、ウランの輸入で南アフリカ・ヨハネスブルグに1986年から5年間。最後はモスクワ(当時既にロシア)に1994年から3年間。

そして、54歳の時、原子力をやっていた関係の子会社に出向しました。㈱日本ニュークリアサービスという会社です。社員30人ぐらいの小さい会社でした。使用済み核燃料を輸送する際に、すぐには危険で輸送できないので、数年間は水の中に入れておきます。これをプールと呼びます。数年も経つと発熱も低くなり、放射線も取扱いが出来るほどに低くなるので、それを取り出して、鉛でできた特殊な輸送容器に入れて、大型運搬車両に乗せて、港まで運んで特殊専用船に乗せる。そんな仕事をしている会社です。総務部に入り、翌年より代表取締役を5年務めました。


▲朝日Weekly に紹介記事が掲載されました 

”会社生活では苦手科目の勉強をすることに”

南山に入ったのは、そもそも化学、物理等の理数系が苦手だったからですが、会社に入った途端、原子力の仕事とやるという事で物理やら化学の基礎を勉強せざるを得なくなり、一体この会社を何を考えているのかと悔やんだものです。しかし商社の仕事は、深く知らなくても良く、広く浅くある程度の知識があれば、やっていけます。

結局、会社生活は、大嫌いな科目を克服する羽目に。人生は皮肉なものだと思います。

”退職した時、さてこれから何を?”

2003年1月1日に60歳で退職し、何をやろうかと考えた時、とにかく、嫌いなことを40年もやってきたんだから、今度は、全然違うことをやりたいと思い、適当な仕事はないかと考えました。


▲通訳ガイドのお客さんと(写真1)

趣味やボランティアでもいいけど、緊張感が全然ないのでは、生活に張りがなくなってしまいます。毎日でなくても、週3日~4日は仕事をして緊張感を保ち、後は、好きな読書とボランティアをやるという大方針を決めたわけです。

1年ぐらい、いろいろ探した結果、英語は不自由しないし、相手とのコミュニケーションも会社付き合いでやってきていたので、通訳ガイド、すなわち観光地の日光や箱根などを外国人に英語で案内する仕事をしようと決めました。

ガイドをやるには国家資格が必要です。たまたま、私はこれを会社にいる時、1993年に取得していました。ちょうど子会社に出向となり、商社にいる時よりは時間に余裕ができたことと、何より大阪に単身赴任だったので週末は時間があったのです。時間が使ったのは、2つ事でした。一つは資格をとったこと。もう一つは、週末に、京都、奈良の神社巡りをしたことです。よく歩きましたねー。かなりマイナーな山里離れたお寺さんにも自分でにぎり飯を作って行きました。お陰で京都・奈良の寺社巡りでしたら、いつでもガイド出来る自信があります。当時は寺社巡りがガイドに役立つ等考えてもみませんでしたが、何が役立つかわかりませんねぇ。

”いいですねー。退職したらすぐ通訳ガイドとは”

いえ、それが、さっぱり。厳しいですよ。現実は。
最初は1年やそこらは時間をかけてゆっくりやろうと思っていました。
が、途中から、これはダメかなと思いました。

つまり、声がかからないのです。

私は、JFG(全日本通訳案内士連盟)というガイドの協同組合組織に加入していまして、ここから少しずつ紹介を受けました。最初はお客様を空港に出迎えホテルにチェックイン。ガイドというよりはアシスタントです。そのうち、だんだん、日光日帰り一日とか、箱根や富士山とやるうちに、ある時、シンガポールの旅行会社の添乗員と親しくなりました。そして、ここの仕事を中心にガイドの仕事が出来るようになりました。

今主にやっているのは、北海道一週間旅行のガイド。函館や札幌に入り後は専用バスに乗って、道南、道央を案内しています。最近は、道東まで足を伸ばしています。

3年前から本腰をいれて、昨年は長期ガイドが10回ぐらい。内訳は、北海道5回、東北2回、後は中部、金沢、九州など。新しい場所は積極的に受けています。行く前には、色々な準備が必要です。訪問箇所は、ネットで調べて、初めての所は下見にも行きます。また案内先の説明文を英文で作成したり、日程表をベースに訪問箇所を確認し、訪問順にあたかも実際にガイドをしている事を想定して机に向ってガイドをしていきます。こうする事により不足しているものが分かり、それらを追加したり、どのような話し方がよいかも分かってきます。とにかく長期ガイドの場合は、行く前の準備が大変ですね。

準備をしていくと、お客さんも楽しんでくれます。歴史や地理だけ話してもダメで、興味を持ってもらおうとすると、興味を惹くような話し方すなわち、お客様が自分で考え、ガイドと対話をしようという意欲をもってもらわないといけない。話し方をどうやって“笑いが取れる”話にするか苦心するところです。

この仕事は春、秋のシーズンに集中します。むこう(シンガポール)の学校の休みに特に集中します。一人ではできないので、最近は何人か仲間を集めて、自分が窓口になって、仕事を仲間内で割り振ってしています。なんだか、最近忙しいですね。もう少しのんびりしようと思っていたのですけど。読書とかボランティア活動は、しばらくお休みとなっています。


▲通訳ガイドのお客さんと(写真2)

今、67歳だけど、こんなに集中してやるのは70歳ぐらいでやめようと思っています。

”読書とか、ボランティアというのは?”

仕事以外では、好きなテニスやゴルフをそれぞれの仲間とやっています。テニスは、週2回、ゴルフは月1回ぐらいの割合でやっています。健康が何といっても一番大事であり、体力維持のためにはこれくらいの運動をずっと続けて行きたいと思っています。

その他には、読書では、アメリカの作家で今年初めに亡くなったJerom David Salinger(サリンジャー)という人の作品に南山大学3年生の時に出会い、それ以後仕事が忙しく読む機会がなく、折に触れ気にかかっていましたが、退職後もう一度読み直そうと決心しました。そこで調べている内に、青山学院大学で彼を研究しておられる先生を見つけ、受講したい旨先生に手紙を出して頼んだ所、特別聴講生として、2年間毎週1回聴講が出来るようになりました。この2年間は、学生時代と全く違って本当に楽しい時間でした。今は、ガイドの仕事が忙しくなかなかゆっくり読む時間がありませんが、70歳以降にまた復活して読み続けたいと思っています。

最後にボランティアですが、正直言って余り活動できていません。自分が40年間原子力の仕事でお世話になったので、この分野で何か出来ないかと考えていたところ、皆さんご存知のチェルノブイリ原発の爆発事故で、多くの犠牲者が出ました。この事故で、強い放射能を浴びたベラルーシの子供達を甲状腺ガンから救うべく、自前で立上がった日本の医師がおられます。甲状腺の専門医の菅谷 昭(すげのや あきら)先生です。5年に亘り現地に駐在し、診療、甲状腺ガンの手術等の活動を行い、帰国後もNPO“チェルノブイリ医療基金”を立上げ、ベラルーシの被爆児童に支援を続けておられます。このNPOの支援活動を少しでも助けるため、自分の知識を役立てたいと思って、このNPOに参加しております。もう少し時間的余裕が出来たら、モスクワ時代の知識を活かし、CIS Countryの一つであるベラルーシへの支援物資の輸出に役立ちたいと思っています。


▲通訳ガイドのお客さんと(写真3)

以上が定年退職後の私の日常生活です。
まだまだやりたい事が一杯あり、時間が足りませんが、焦らずに一歩づつ、目標をクリアーしていきたいと思っております。

(文責:S57卒 佐宗美智代)